宇田川版グルメリポート 第1回
著者:宇田川敬介
駒形どぜう
1 どぜう
「どじょう」「泥鰌」というとどのようなイメージがあるだろうか。
私のように昭和40年代に生まれた年代にとっては、まだあまり大きくなかった町のスーパーマーケットや、市場の魚売り場に、水の張った大きなたらいがあり、その中に空気の泡がブクブクと出てきているところに、黒く小さく細長い「物」の塊が右に左に動くのが楽しかった。近くには「たたかないでください」と書いてあるのだが、子供のころの私などはそのようなことは全く分からない。そのために、必ずそのたらいを叩き、黒い塊が右に左に動くさまを、本当に楽しく見ていたものである。子供のころは、そのようなものであり、今のようなコンピューターのゲームなどがなくても、十分に楽しかった気がする。泥鰌といって、あのたらいの中の黒い塊を思い出すたびに、そのようなことを思うのである。
それが「泥鰌」であるということを知るのは、もっと後のことであった。やはり子供の口には泥鰌というのは、早かったのか、小さくて骨が多く、少々泥臭い味は、私のような都会育ちのものには、なかなかなじめなかったものである。黒く小さく動くものが、いつの間にか鍋の中に入り、大体の場合卵とじになって出てきていた。子供にとっては「親子丼」「カツ丼」の方がずっと食べやすいし、なじみがある。しかし、その鶏肉やカツの代わりに、泥鰌というのは、やはり難しかったのだろうか。この「泥鰌」を私自身が好んで食べるようになったのは、中学生になってからである。それまで、江戸っ子であった父は、「柳川鍋」を好んで食べていたが、「味がわかるようになるのはまだ先だ」といっていたような記憶があるのだ。
その泥鰌を好きになったのが「駒形どぜう」である。
一般的な柳川鍋ではなく、駒形の「どぜう鍋」を食べた時の感動は忘れられない。そこで、まずはこの「どぜう」に関して書いてみようと思う。
2 駒形
そもそも駒形とは、現在の東京都台東区の町名である。ちょうど浅草浅草寺雷門の門前から、南の浅草橋の方に歩いて数分のあたりに「駒形」という交差点がある。この地名から考えれば、馬と関係があると思うかもしれないが、もともとは、浅草寺の駒形堂に由来するとされている。浅草寺は天慶五年、西暦で言うと942年、平安中期、この天慶5年のあたりの武将平公雅によって、この地に来た円仁の作った馬頭間のを祭るために、建立されたことが起こりである土地と伝えられている。平公雅は、父である平良兼が、従兄妹にあたる平将門と何回も戦い、そして関東を双方が争う結果になったことに心を痛めていた。平将門の乱では、この時期の武将にしては珍しく中立的な立場で、兵を出さず、「俵藤太」藤原秀郷が、正式に朝廷の追捕使になってきたのちになって初めてその軍に従っている。その後、藤原秀郷の後に武蔵守となり、浅草寺を建立したのである。
天慶8年、西暦で945年の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草海苔』だ」と評判になったという、伝説というよりも、まあ、民間伝承も残されているのである。
さて、浅草寺を建立した時に、一緒に馬頭観音を祭る駒形堂を作ったといわれているが、関東大震災で燃えてしまっているし、その後も東京大空襲で燃えてしまっているので、その場所が現在の「駒形」と同一なのかはなかなか難しいところである。しかし、その辺の細かいところは別にしても、少なくとも浅草寺の門前で、人が集まるところ、そして、隅田川にかかる駒形橋のたもとのあたりは、門前の仲見世商店街のような「雑踏」からは少し離れた「本当に好きな人しか来ない」場所であるといえる。
その駒形に、江戸風情の残る店構えがある。
浅草、雷門の方から歩いてゆくと、何の変哲もない白地の看板に「駒形どぜう」と縦に書かれた看板が見える。最近は、建物が大きくなり他の看板も少なくないところ、やはりこの「駒形どぜう」の看板が見えると、少しホッとする感じがある。ほんの数分のことではあるが、しかし、それでもおいしいものは早くありつきたいというのが人間の本能だろう。
しかし、この駒形という町は、おいしいものが多いはずなのに、匂いが全くしない。本来ならば匂いがするのが普通なのであるが、すぐ横に流れる隅田川と、大通りの車の流れですべての匂いが飛んでしまうのであろうか。この匂いがしないというのは、実は店の前に行くまで、店がやっているのかどうかが不安になるのだ。そのために、店の前に行き、人が待っていると、なぜかほっとするのである。
さて、のれんというのは「暖簾」と書くように、本当に「温かさ」を感じる。特に、今回行ったのは冬であったために、この暖簾の奥には、ほんとうに暖かい空気があるのと、もう一つは「店が開いている」という、心の温かさと両方を得ることができる。これは「駒形どぜう」だけのものではない。世の「店」というのは、すべて「暖簾」によってその温かさを得ることができる。「暖」という言葉の奥の深さに驚きを感じるものである。
さて、前置きが長くなったが、さっそくこの「ど」「ぜ」「う」と書いた暖簾をくぐることにしよう。
3 鍋
店の中に入ると、そこは江戸の店であった。少し高くなっているところにいたが通してあり、その横に簀子と座布団、通してある、かなり年季の入った黒みがかっていたが、机替わりであるが、基本的に、段差があるわけではない。まあ、江戸時代、テーブルや机というものがない時代、お膳というシステムがあったが、しかし、そのお膳の無いところは床にそのまま食器を並べていた。まさにその状態がそこに広がっているのである。
そして、右側には下足番と二階につながる、やはり年季の入った階段、そして左には地下につながる階段である。そもそも「下足番」問うものが最近はなくなってきた。
「テーブルにしますか、座敷にしますか」
実際のところ、一階の桟敷が最も風情がある。しかし、やはり同じことを考える人は少なくない。当然、桟敷席は、満席に様子である。座敷とは二階席で、畳にテーブルにになっている。ここはとりあえず地下のテーブル席に行く。地下は、昼でもかなりの賑わいだ。
さて、昼からという罪悪感を少し感じながらも「飲み物」と書いたところを見る。日本酒と焼酎が書いてあるが、今日は焼酎にしよう。相方は酒を注文し、食べ物は「どぜう鍋」とつまみに「鯉の洗い」である。
どぜう鍋には、昔は「丸鍋」と「割き鍋」の二つがあった。丸鍋とは泥鰌がそのまま鍋の中のお行儀よく並んでいる。まあ、表現は良くないが「めだかの学校」のように「鍋の上の泥鰌の学校」という感じである。一方、「割き鍋」は、その頭やひれが苦手な人、または見た目がグロテスクでいやだという人に対して、かば焼きのように、泥鰌の頭を落とし、そのうえで、開いて並べてある。
ここ「駒形どぜう」の泥鰌は生きているうちに酒の中に入れられ、何日も酒の中で泥を吐かせられる。つまり、「酒」によって肉は柔らかくなり、なおかつ生臭さも酒で取れているということになる。そして、最後には「酒におぼれて」死ぬのである。まあ、死ぬものに対して不謹慎であるが、ある意味、他の泥鰌などに比べれば、はるかに幸せな死に方なのかもしれない。いずれにせよ、酒で泥臭さと、肉の柔らかさが維持されるということである。この辺が、他の泥鰌とはわけが違うところだ。酒で柔らかくなっているので、骨も頭もすべて柔らかくなっている。そこで丸のまま食べても何ら問題はない。そのような細かいところに気がつくところが、この店が長い間庶民の間に愛されている理由ではないか。
この酒に長い間つけてあるというのは、パンフレットを細かく読むか、あるいは店員に聞かなければわからないことだ。最近の店のように、これ見よがしに、見えない厨房の部分や仕込みの部分を自慢げに書いたりはしない。しかし、見えないところの仕込みの部分に手を抜かないから、いつまでもおいしいし他の店との差別化が図れる。そして、その味がいつまでも続くのではあるまいか。そして、聞けば、その作業を快く教えてくれる気風の良さが、正に江戸っ子である。見えないところ、細かいところ手を抜くか抜かないかが、日本人の素晴らしさであり誇りである。この「駒形どぜう」という料理でも十分に生かされているん野である。
どぜう鍋は、木製の器の中に鉄で囲った炭火で焼く。上に鉄板の丸い鍋が置いてあり、その鍋の中に、甘口の醤油ベースの出汁の入った鍋の中に、丸のままの泥鰌が並んでいる。その上に、ネギをたくさんトッピングする。ネギがその甘口の出汁を吸い込み、たれが少なくなったらまた横にある出汁を注ぎ込む。少し多めにすると、出汁が鍋からあふれてしまう。それ程鍋は何もないような感じだ。その出汁が下で真っ赤に燃えている炭の上に垂れて、白い煙とともに、甘い匂いを広げる。
もちろん、やり過ぎてはダメだ。しかし、ちょっとだけ「ジューッ」という音ともに広がる出汁の焼ける良い匂いを体験してみたいものではないか。
そもそも、出汁、東京の出汁は、江戸時代に野田・銚子と醤油の産地が多かった。現在は落花生の産地になっているが、昔は千葉から茨城にかけての広大な土地に、多くの大豆ができていて、それが味噌や醤油になっていた。当時世界最大の消費都市「大江戸」において、その醤油が多くもたらされ、そして江戸は醤油文化になった。長野から名古屋にかけての味噌文化、そして、京都大阪から赤穂にかけての塩文化と異なる江戸の象徴は、この出汁が「醤油色」ということに尽きる。
その醤油も、産地によって異なる。当然に「味噌」が作り手によって異なるように、醤油も様々な産地によって異なるのである。「合わせ味噌」があるならば当然に「合わせ醤油」があってもおかしくないが、なぜかそのような言葉が出てこない。醤油は黒いために、合わせてしまってもなかなか分からないない。そして、それを「隠れていない隠し味」に使うために、なかなか、消費者の目には触れない。特に、醤油だけで食べるのではなく、他にも様々な調味料を入れて、店、いや、板前一人ひとりに独特の配合がなされているのである。そのために、当然に醤油を合わせているというだけでは、あまり分からない。「どぜう」を酒の中で泥を吐かせているのを全く言わないことと同じで、これも職人の、客には見えない「秘儀」なのであろう。ここ「駒形どぜう」でも、醤油をあわせ、なおかつ、その醤油にみりんや砂糖、酒、塩などを入れて、独特の甘さに仕上げている。当然に、「甘すぎず」ということと同時に、「どぜうの味や、どぜうの身に染みている酒の味」に合わせて「嫌味」にならないような味に仕上がっているのである。
この「嫌味」という言葉は、今では否定的な意味の言葉などで使われる。まあ「嫌味」とは「他人に不快感を与える言動のことであり、大きく分けて以下の3種類に分類できる。 言葉によって相手を不快にさせること。 相手にとって不快を感じるような気取った素振り、もしくは外見のこと。 相手の真意に関らず、不快なものとして受け止めること。」というような感じの意味なのであるが、しかし、そもそもは「今までの存在の味を邪魔する、それまでの味とは異なる味」という感じのものであろう。まさに、どぜうの味を殺してしまうようなものが「嫌味」であり、また邪魔な味なのである。
さて、目の前で完全に熾っている炭に、料理を任せ、あたりに広がった甘い出汁の香りで、まず一献。口の中に少し「辛み」を入れておく。さすがに「駒形どぜう」が老舗と思うのは、この「どぜう鍋」つまり「どぜうの味」「どぜうの下ごしらえに使った酒」「醤油やそのほかの調味料で整った出汁」そして「辛みの入ったネギ」に、まさに「嫌味にならない酒」が出てくる。最近の店では、なんでも有名な酒や、雑誌などに出てくる酒、高価な酒を並べて、これ見よがしにメニューにならべているところがある。もちろん、「酒がメイン」というならばそれもあるだろう。しかし、老舗はそうではいけない。自分の「看板メニュー」に自信を持っていれば持っているほど、「酒も看板を傷つけない」味にしなければならないのである。つまり、「下ごしらえに使った酒に、様々な調味料や泥鰌」に勝たない、控えめで、それでいて風味とアルコールの適度な柔らかさ、そして心地よさを演出する酒ではならないのである。
その酒をほんの一口、ここに来るまでに歩いた汗と、そして、口の中の渇きを潤す程度、まさに、「夜露が葉の先にたまった一滴」のごとき酒を、身体の中に入れる。当然に、酒そのものは口の中でほんわりと広がり、そして、その酒の一滴で胃の腑が急に動き出す。その動きを紛らわすかのように、会話が弾むのである。
さあ、会話をしている間に「どぜう鍋」ができる。もちろんいろんな食べ方があり個人の自由だ。しかし、私は、まずは「ネギ」のみを戴く。皿の上にネギを乗せ、その上に山椒を振りかける。竹筒に入った山椒と七味唐辛子は、両方とも甘い出汁にアクセントをつける辛味であるが、私はアツアツのネギの湯気に乗せて山椒の自分の存在感を表すような、それでいて、ちょっと上品な、山の中を思わせる香りが好きなのである。
そして、一口流し込む。
ネギの辛み、出汁の甘さ、そして山椒のアクセント、いずれもが主張しすぎず、一方で、うまく調和して、口の中で香りと味が広がる。柔らかく煮えた中に、まだ完全に煮えていないネギが残っている。その柔らかく、舌で押しつぶすと、暖かい出汁がしみだしてくるネギと、奥歯で噛むとまだ「シャキッ」と音のするネギの混在が、同じ食材でも、二つの「食感」を楽しませてくれる素晴らしさは、やはり鍋物でしか味わえない。その歯触りと山椒のピリリとした、舌先がしびれるような辛さを楽しむ。そして、その辛さと甘さが飽和した口の中に、もう一度「嫌味にならない酒」を流し込む。これぞこの世の幸せであろう。
さて、ネギが終わったら、次は泥鰌とネギを皿の上に乗せる。泥鰌は、肉厚でなおかつ舌先でちょっと押しただけでも十分にほぐれてしまうし、何日も酒の中にいたのであろう、骨まで柔らかくなっている。まったく泥臭いことはなく、うまく甘口の醤油出汁とマッチしていることがよく分かる。酒の中に長く入れておくことで、身が柔らかくなり、また骨も柔らかくなっているところに、また炭火でじっくりと煮込む。ネギを上に乗せたことによって「煮る」だけではなく「蒸す」感じの柔らかさも加わる。まさに、「泥鰌のほぐし身」の感じで、そのコクと身の柔らかさ、そして泥鰌特有の甘さが口の中に広がる。ほぐし身は、ちょうど、赤ん坊の肌に触れたような柔らかさで、その感触を楽しませてくれる。その身にネギ、出汁、そして山椒の辛さとともに、七味を少しいれて唐辛子の辛さを入れる。この複雑な味が、口の中で、すべてが合わさり、奥歯の奥までその味が広がるのである。全く臭みのない味は、実においしい味を演出し、口の中に、様々な感動を呼び起こすのである。
そしてまた一献。ああ、最近、泥鰌を売っている店がいなくなったが、このような「贅沢」を失った現代人を非常に悲しく思うものである。昔ながらに、スーパーマーケット食品売り場に大きなたらいが置いてあって、その中で黒い塊が右に左に行き来する、そんな時代ならば、ぜひ自宅でこの味を、できないまでも挑戦してみたいものではないか。ある意味で、現代人の味に対する「便利さ」と、それに伴って失われてしまった「豊かさ」の両立ができないものかと感じてしまうものである。
4 鯉の洗い
さて、泥鰌に対してそのようにさまざまなことを思っている間に、初めに注文した鯉の洗いの到着だ。鯉は、生で食べても「刺身」とは表現せず、「洗い」と表現する。
「洗い」とは、下ろした魚を薄切りにし、流水やぬるま湯で身の脂肪分や臭みを洗い流した後、氷水に漬けて身を引き締めてから水気を切って食べるものである。主に、川魚などの、臭みがある魚に対して使う方法であり、この「お湯で流してから氷水でしめる」という方法が、またよい。「一度お湯で緩めて」ということで、柔らかくなり、そして氷水で急激に冷やすことによって「表面を締める」という方法は、身の中と外の温度差を作って、身の固さを変える。表面が締まっているので、中の方まで様々なものがしみこまず、身のおいしい部分をすべて「中に閉じ込める」という方法である。外の臭い部分を流したうえで、美味しさを閉じ込めるという料理法は、やはり魚を知り尽くした江戸の職人の技ではないか。刺身で食するよりも身の脂分とクセが抜けあっさりするのと、刺身よりもやや弾力が出る。
洗いというのは、これを酢味噌で食べるのが一般的だ。醤油などで食べてもよいのであるが、醤油にしてしまうと、「表面だけ醤油がついた状態」になってしまう。もともと臭みのある魚なので「洗い」にしているのだから、やはり「臭みをとる」食べ方をしなければならない。臭みをとるというのは「味噌」が最も良い感じである。そういえば、イノシシを使った「ボタン鍋」も牡蠣を使った「土手鍋」も味噌にしている。いずれも「臭み」がある食材の場合に味噌を使うのである。
酢味噌というのは、味噌に適量の酢を混ぜた食材である。この中に、少々ゆずの粉などが入っていると、なかなかの風味と香りが出る。この酢味噌を鯉の身に適量つけて食べるのである。
いや、申し訳ないが、今回は、しその実を入れてみた。場合によっては、ごく少量の山椒を入れてもおいしい。
酢味噌というのは、醤油のように垂れてしまわないのである。つまり、洗いの身にまとわりつく。これが、締めた表面と温かく緩んだ中身にうまく絡まって絶妙な味を作り出すのである。
少しあっさりして、白身魚特有の甘さがある中において、酢味噌の少々の酸味と味噌の甘みが広がる。臭みは酢の酸味が消してくれる。そこに、今回はしその実の香りがほのかに口の中から鼻孔に広がるのである。ああ、なんという美味。魚というと海の魚ばかりが目を引くのである。しかし、実は泥鰌や川魚もかなりおいしい。そしてこの甘みと酢味噌のハーモニーが、胃の中に広がりそこに酒が入ってゆくのである。酢味噌というのは不思議で、その酸っぱさから、酒が甘く感じる。もともと甘い出汁の「どぜう鍋」と、酸っぱい味の「鯉の洗い」で、酒の味が変わるのが、何とも言えず趣深い。酒というのは、肴によってこんなに味が変わるのかというような気がするのである。その「同じなのに違う味」を楽しめるというのは、なかなか面白いのだ。こうやって、昔の人は「七色の味」を味わったのではないだろうか。そう考えると、江戸時代の人々の味への探求心、そして、祖の味わいからで「粋」を感じる心というのは、現代も忘れたくない心なのである。
駒形という、隅田川の川沿いで、実に「江戸の味」川魚を味わうというこの贅沢が何とも言えない。当然に、酒も進むのであるが、まだ昼であることを考慮し、徳利一本で自主的にやめておくことにする。
いや、こんなにおいしいものを食べて、幸せだなあ。
0コメント